2008年02月13日 20:29
1932年(昭和7年)4月24日、東京の目黒競馬場で第1回ダービー(東京優駿大競争)が開催された。イギリスのダービー・ステークスに範をとり、東京競馬場に銅像がある安田伊左衛門(競馬翁)が創設したこのレース。出走したのは3歳の牡馬12頭、牝馬7頭の計19頭。歴史的な勝者となったのは1番人気のワカタカ。雨の不良馬場、2400mを2分45秒2で駆け抜ける快勝だった。
世界の競馬の歴史は古い。
ホメロスの「イーリアス」に描かれた戦車競技は古代オリンピックの花形だったし、ローマ帝国では40万人もの観衆を収容できる大競走場(チルコ・マッシモという)が建造された。ただし、当時の競馬は戦車競馬であり、2頭あるいは4頭だての戦車で、700mの馬場を7周する規則になっていた。
14・5世紀頃、猟に使うハンター(猟騎馬)の能力を競うために公開で走らせるようになるが、やがてそれに賭けがともなうようになった。18世紀になると、イギリスの大地主であるジェントリー(郷紳)の娯楽として近大競馬がはじまり、産業革命後には新たに誕生したブルジョアジーのあいだにもひろまっていった。そこでは6歳から8歳くらいの馬が6000m以上の長い距離を複数回走り、2度勝ったときに勝ち馬となる競技方法(ヒート競走)が楽しまれた。しかし、すでに評価の定まっている古馬の競技では意外性に欠けるため、1756年以降は、人間でいえば15歳程度でいまだ評価の定まらない3歳馬の競技がはじまった。予測不能な要素が多ければ多いほど賭け事はおもしろいからである。
1700年頃からイギリスの競馬好きな資産家たちは、地中海周辺の各地域のアラビア馬、北アフリカのバーバリー地方で古くから飼われていた脚の速い馬(バルク)、トルコ馬(ターク)などを輸入し、イングランドのハンター牝馬と交配して、競走馬としては最も優れているとされるサラブレッドを誕生させた。サラブレッドは「徹底的に品種改良されたthorough-bred」という意味の造語だとも、純血を意味するアラビア語kohailainの訳語だともいわれている。
イギリスにはGENERAL STUD BOOKとRACING CALENDARという本がサラブレッドの登録機関でもあるウイズビー社から出版されている。ジェネラル・スタッド・ブックは1791年に第1巻が発行されたのを皮切りに、現在まで44巻が刊行されている。これは血統管理の重要性を説いたジェームズ・ウィズビー卿が創始したもの。もう一方のレーシング・カレンダーには現在に至るまでのすべてのサラブレッドの競走成績が克明に記録されている。なぜこれほどまで血統にこだわったかといえば、イングランドの在来馬は雑種が多く、しかも遺伝能力が低かったので、競走能力を固定させるためには血筋のはっきりした輸入馬が必要と信じられたからである。イギリスには「血統汚染」という言葉があるとおり伝統的に血統・血筋を重視する傾向があることも背景のひとつとしてあったのかもしれない。
第1巻のスタッドブックには102頭の種牡馬が登録された。そのなかで現在に至るまで系譜として残っているのは3頭のみ。すなわちゴドルフィン・アラビアン(The Godlphin Arabian 北アフリカ産)、バイアリー・ターク(The Byerly Turk トルコ産)、そしてダーレー・アラビアン(The Darley's Arabian トルコ産)である。では、サラブレッドはいつごろ誕生したのか、というと、ダーレー・アラビアン系のベイボルトン(The Baybolton 1705-1736)あたりがサラブレッドとしての特徴を発揮しはじめ、おなじくダーレー・アラビアン系で日蝕という名のエクリプス(The Eclipse 1764-1789)で達成されたという説が主流である。このエクリプス号はその死後、チャールズ・サンブル卿が設立した英国王立獣医学校で解剖研究され、肥大化した強靱な心臓と発達した後肢によりサラブレッドの原型と目されるようになった。19世紀にはいると、イギリス競走馬の質は、もはや種牡馬の輸入の必要はない、と断言できるほど飛躍的に向上した。
ちなみにディープインパクトはダーレー・アラビアンの子孫であり、日本初の7冠馬シンボリルドルフはバイアリー・タークの子孫である。現在、世界で生産される8万頭のサラブレッドのうち、その9割がダーレー・アラビアン系。かつての日本にはバイアリー・ターク全盛の時代もあったが、世界の趨勢に押され、現在はダーレー・アラビアン系が主流である。
エクリプス号の骨格

さて、都市住民の娯楽となった近代競馬で、もっとも有名なレースがダービーであることに異論はないだろう。その語源となるダービー伯爵家は、産業革命の舞台となったイングランド北西部ランカシャー地方の名家であり、ピューリタン革命の際に一時王党派に与して没落したものの、産業革命で勢力を盛り返していた。12代のダービー家当主となったエドワードは1779年に「オークス(樫)の処女」エリザベス・ハミルトンと結婚したが、その盛大な結婚祝いに父親と親交のあったバーゴイン将軍といっしょに、自分たちの競馬場で12頭の「3歳牝馬による1マイル半のレース」を開催した。これがオークスの嚆矢となる。
このオークスがたいへんな盛況だったことから、翌1980年には3歳牡馬牝馬混合の、おなじく1マイル半のレース開催が決定された。ところが、ここでレースの名称をめぐって問題がおきた。しかし、中心メンバーのひとりであるバーゴイン将軍は、アメリカ独立戦争に際して指揮官として植民地に赴いたものの、1777年のサラトガの戦いで植民地軍に降伏するという不名誉な経歴をもっていた。そのために彼は新しい競馬競走に自分の名前を冠することを辞退する(ちなみにサラトガの戦いはフランスがアメリカ独立戦争参戦を決定する重要な契機となった戦いだった。サラトガでの勝利がなければアメリカの独立はありえなかたっという決定的戦闘だった)。
そこで新しいレースの名称はダービー卿とジョッキー・クラブの有力者バンバリーがコイン投げによって決めることになり、その結果、ダービーと名付けられた競馬が開催されることになった。それはアメリカが独立した4年後、フランス革命がはじまる9年前のことである。南北戦争から10年が経過した1875年(明治8年)、アメリカでケンタッキー・ダービーが開催、日本では1861年に横浜の根岸競馬場ではじめての洋式競馬競走が開催された。第1回日本ダービーが目黒競馬場で開催されたのが満州事変の翌年の1932年、イギリスでダービーがはじまってから約150年後のことである。
ところで、日本でダービーが開催された具体的な理由は、というと、衰退しかけていた馬産地の救済という意味もあったようである。安田競馬翁は勝馬投票券(馬券)を法的に整備(1923年(大正2年)に競馬法が貴族院を通過するのに貢献。たまには東京競馬場の安田像に向かい感謝の念を捧げてもバチはあたらない)した、いわば競馬ファンの恩人のような存在で、さかのぼること1908年(明治41年)に馬券の弊害がおおきいとして馬券禁止令が発令されてからというもの、斜陽化していく馬産地の惨状に心を痛めていたのはまちがいない。実際、各地の馬産関係者からの「ダービーのような大賞金のレースを設けて産馬の奨励をしてほしい」といった声はけっして小さくなかったようで、安田翁自身も馬産地の衰退をくい止めるためにはダービーの創設が急務と考えていた。
安田競馬翁はまず、日本で開催されるダービーが、世界から見て「ダービー」として通用するための要件を定めた。
1 3歳牡牝馬の最高テストであること。
2 競走距離が2400m、またはそれに近いこと。
3 国内最高額の賞金を設定すること。
4 負担重量は年齢重量であること。
5 時期は原則的に春期であること。
6 施行競馬場は一定であること。
7 この競走は日本国内においてひとつであること。
昭和になり、有力牧場が増加してくると、競馬翁は機は熟したとしてダービーの創設にのりだし、1932年(昭和7年)に初回の日本ダービー(東京優駿大競走)が開催された。優勝したワカタカは下総御料牧場の生産馬で、父は英国の3冠馬ゲインズボローの子トウルヌソル。下総御料牧場が1927年(昭和2年)に当時の金額で9万8076円という金額(現在なら何億円になるのだろう)で買い入れた種牡馬だった。騎手は函館孫作。調教師は東原玉造。
蛇足だが、記念すべき日本ダービーが開催されたその年、文壇の大御所にして高馬を78頭も所有する大馬主だった菊池寛が、その持ち馬をすべて精算したうえで競馬界を去った。その理由は菊池寛の持ち馬ハイブレッド号が9月の新潟競馬に出走した際、だれもが優勝して当然と考えていたにもかかわらず2着に敗退し、手綱をとっていた騎手が故意に遅らせたという疑惑が浮上したためだったとか。
世界の競馬の歴史は古い。
ホメロスの「イーリアス」に描かれた戦車競技は古代オリンピックの花形だったし、ローマ帝国では40万人もの観衆を収容できる大競走場(チルコ・マッシモという)が建造された。ただし、当時の競馬は戦車競馬であり、2頭あるいは4頭だての戦車で、700mの馬場を7周する規則になっていた。
14・5世紀頃、猟に使うハンター(猟騎馬)の能力を競うために公開で走らせるようになるが、やがてそれに賭けがともなうようになった。18世紀になると、イギリスの大地主であるジェントリー(郷紳)の娯楽として近大競馬がはじまり、産業革命後には新たに誕生したブルジョアジーのあいだにもひろまっていった。そこでは6歳から8歳くらいの馬が6000m以上の長い距離を複数回走り、2度勝ったときに勝ち馬となる競技方法(ヒート競走)が楽しまれた。しかし、すでに評価の定まっている古馬の競技では意外性に欠けるため、1756年以降は、人間でいえば15歳程度でいまだ評価の定まらない3歳馬の競技がはじまった。予測不能な要素が多ければ多いほど賭け事はおもしろいからである。
1700年頃からイギリスの競馬好きな資産家たちは、地中海周辺の各地域のアラビア馬、北アフリカのバーバリー地方で古くから飼われていた脚の速い馬(バルク)、トルコ馬(ターク)などを輸入し、イングランドのハンター牝馬と交配して、競走馬としては最も優れているとされるサラブレッドを誕生させた。サラブレッドは「徹底的に品種改良されたthorough-bred」という意味の造語だとも、純血を意味するアラビア語kohailainの訳語だともいわれている。
イギリスにはGENERAL STUD BOOKとRACING CALENDARという本がサラブレッドの登録機関でもあるウイズビー社から出版されている。ジェネラル・スタッド・ブックは1791年に第1巻が発行されたのを皮切りに、現在まで44巻が刊行されている。これは血統管理の重要性を説いたジェームズ・ウィズビー卿が創始したもの。もう一方のレーシング・カレンダーには現在に至るまでのすべてのサラブレッドの競走成績が克明に記録されている。なぜこれほどまで血統にこだわったかといえば、イングランドの在来馬は雑種が多く、しかも遺伝能力が低かったので、競走能力を固定させるためには血筋のはっきりした輸入馬が必要と信じられたからである。イギリスには「血統汚染」という言葉があるとおり伝統的に血統・血筋を重視する傾向があることも背景のひとつとしてあったのかもしれない。
第1巻のスタッドブックには102頭の種牡馬が登録された。そのなかで現在に至るまで系譜として残っているのは3頭のみ。すなわちゴドルフィン・アラビアン(The Godlphin Arabian 北アフリカ産)、バイアリー・ターク(The Byerly Turk トルコ産)、そしてダーレー・アラビアン(The Darley's Arabian トルコ産)である。では、サラブレッドはいつごろ誕生したのか、というと、ダーレー・アラビアン系のベイボルトン(The Baybolton 1705-1736)あたりがサラブレッドとしての特徴を発揮しはじめ、おなじくダーレー・アラビアン系で日蝕という名のエクリプス(The Eclipse 1764-1789)で達成されたという説が主流である。このエクリプス号はその死後、チャールズ・サンブル卿が設立した英国王立獣医学校で解剖研究され、肥大化した強靱な心臓と発達した後肢によりサラブレッドの原型と目されるようになった。19世紀にはいると、イギリス競走馬の質は、もはや種牡馬の輸入の必要はない、と断言できるほど飛躍的に向上した。
ちなみにディープインパクトはダーレー・アラビアンの子孫であり、日本初の7冠馬シンボリルドルフはバイアリー・タークの子孫である。現在、世界で生産される8万頭のサラブレッドのうち、その9割がダーレー・アラビアン系。かつての日本にはバイアリー・ターク全盛の時代もあったが、世界の趨勢に押され、現在はダーレー・アラビアン系が主流である。
エクリプス号の骨格

さて、都市住民の娯楽となった近代競馬で、もっとも有名なレースがダービーであることに異論はないだろう。その語源となるダービー伯爵家は、産業革命の舞台となったイングランド北西部ランカシャー地方の名家であり、ピューリタン革命の際に一時王党派に与して没落したものの、産業革命で勢力を盛り返していた。12代のダービー家当主となったエドワードは1779年に「オークス(樫)の処女」エリザベス・ハミルトンと結婚したが、その盛大な結婚祝いに父親と親交のあったバーゴイン将軍といっしょに、自分たちの競馬場で12頭の「3歳牝馬による1マイル半のレース」を開催した。これがオークスの嚆矢となる。
このオークスがたいへんな盛況だったことから、翌1980年には3歳牡馬牝馬混合の、おなじく1マイル半のレース開催が決定された。ところが、ここでレースの名称をめぐって問題がおきた。しかし、中心メンバーのひとりであるバーゴイン将軍は、アメリカ独立戦争に際して指揮官として植民地に赴いたものの、1777年のサラトガの戦いで植民地軍に降伏するという不名誉な経歴をもっていた。そのために彼は新しい競馬競走に自分の名前を冠することを辞退する(ちなみにサラトガの戦いはフランスがアメリカ独立戦争参戦を決定する重要な契機となった戦いだった。サラトガでの勝利がなければアメリカの独立はありえなかたっという決定的戦闘だった)。
そこで新しいレースの名称はダービー卿とジョッキー・クラブの有力者バンバリーがコイン投げによって決めることになり、その結果、ダービーと名付けられた競馬が開催されることになった。それはアメリカが独立した4年後、フランス革命がはじまる9年前のことである。南北戦争から10年が経過した1875年(明治8年)、アメリカでケンタッキー・ダービーが開催、日本では1861年に横浜の根岸競馬場ではじめての洋式競馬競走が開催された。第1回日本ダービーが目黒競馬場で開催されたのが満州事変の翌年の1932年、イギリスでダービーがはじまってから約150年後のことである。
ところで、日本でダービーが開催された具体的な理由は、というと、衰退しかけていた馬産地の救済という意味もあったようである。安田競馬翁は勝馬投票券(馬券)を法的に整備(1923年(大正2年)に競馬法が貴族院を通過するのに貢献。たまには東京競馬場の安田像に向かい感謝の念を捧げてもバチはあたらない)した、いわば競馬ファンの恩人のような存在で、さかのぼること1908年(明治41年)に馬券の弊害がおおきいとして馬券禁止令が発令されてからというもの、斜陽化していく馬産地の惨状に心を痛めていたのはまちがいない。実際、各地の馬産関係者からの「ダービーのような大賞金のレースを設けて産馬の奨励をしてほしい」といった声はけっして小さくなかったようで、安田翁自身も馬産地の衰退をくい止めるためにはダービーの創設が急務と考えていた。
安田競馬翁はまず、日本で開催されるダービーが、世界から見て「ダービー」として通用するための要件を定めた。
1 3歳牡牝馬の最高テストであること。
2 競走距離が2400m、またはそれに近いこと。
3 国内最高額の賞金を設定すること。
4 負担重量は年齢重量であること。
5 時期は原則的に春期であること。
6 施行競馬場は一定であること。
7 この競走は日本国内においてひとつであること。
昭和になり、有力牧場が増加してくると、競馬翁は機は熟したとしてダービーの創設にのりだし、1932年(昭和7年)に初回の日本ダービー(東京優駿大競走)が開催された。優勝したワカタカは下総御料牧場の生産馬で、父は英国の3冠馬ゲインズボローの子トウルヌソル。下総御料牧場が1927年(昭和2年)に当時の金額で9万8076円という金額(現在なら何億円になるのだろう)で買い入れた種牡馬だった。騎手は函館孫作。調教師は東原玉造。
蛇足だが、記念すべき日本ダービーが開催されたその年、文壇の大御所にして高馬を78頭も所有する大馬主だった菊池寛が、その持ち馬をすべて精算したうえで競馬界を去った。その理由は菊池寛の持ち馬ハイブレッド号が9月の新潟競馬に出走した際、だれもが優勝して当然と考えていたにもかかわらず2着に敗退し、手綱をとっていた騎手が故意に遅らせたという疑惑が浮上したためだったとか。
